神は愛であるが故に存在証明は不要?

神は愛であるということが、私の感性の大前提です。
あくまでも私の霊的直感が感じていることですから誰にも強要できません。

愛とは何でしょう?

当然見返りを求めるような自己主張は愛ではないでしょう。
神が愛であれば創造世界に対して「私が創った」などと主張されないでしょうし痕跡も残されないでしょう。
この宇宙に「創造主たる神のサイン」がないのです。
まさに神が愛である所以と感じます。
創造世界でも、人間にとって必要不可欠な光や空気ほど透明化していることから見ても世界が愛で満たされていることを感じます。

神は愛であるが故に存在を消されたのです。
いつの日か科学などがは発達して「神の存在証明」がされるような創造であれば、神の嫌らしい打算となります。
ですから神が愛であるとすれば存在証明は不可です。

愛は証明された瞬間に愛ではなくなる?

愛は証明された瞬間に愛ではなくなります。
愛する人の愛が信じられなくて相手をためす類いのドラマがよくありますが、ものや行為でいくら愛らしい行動をとったところで、ためした瞬間、愛ではありません。
思えば「イエス・キリスト」もサタンから神をためすように試練されていました。

私が霊的直感で出会う神は信仰でも、存在証明された神(実際には不可網だがそう信じてしまった状態)は信仰ではなく「存在証明された神」という偶像崇拝になります。
モーセの「私はあってありつづけるものである」とした「私自身の出会いの神」という信仰感が大切です。
団体の神でもなく教祖の神でもなく何かに宿る神でもなく「私自身の出会いの神」です。

神の存在証明は悪魔の誘惑?

存在証明自信が悪魔の誘惑かもしれません。
神は愛であるが故に証明できないのです。
もちろん神がいないという証明もできません。

神の存在は一切他人に押しつけるものではなく、すなわち客観的に認知するものではなく、あくまでも主観的に感しるものなのです。
無神論の人や別の神感を持つ人に強要はできません。
あくまでも自然な感化であり導くのみです。

神の存在証明はむしろ人類を分断してしまう魔のささやきです。

以下に歴史上有名な「神の存在証明」を上げて見ます。
結局どれも証明には至りません。

科学者アイザック・ニュートン

有名な話です。

彼は、腕利きの機械工に、太陽系の小さな模型を作らせました。それは、クランクをまわすと、惑星を表す、いろいろな球体が歯車とベルトの働きで一緒に動くという仕掛けです。
彼はそれを書斎のテーブルのそばに置いていました。
ある日、書斎で読書をしていた時、無神論者である友人の科学者が彼を訪ねてきました。友人はその模型を見て一目でそれを理解したのです。
そしてゆっくりとクランクを回しました。数個の天体がそれぞれの軌道をさまざまな速さで回転するのを見た彼は、いかにも驚いた様子で「実に見事だ!誰がこしらえたのかね」と尋ねました。
ニュートンは言いました。「誰でもないさ。」「君は僕の質問がわからなかったらしい。僕は、どこの誰がこしらえたのかと尋ねたんだよ。」ニュートンは読んでいた本から顔を上げて言いました。
「誰が作ったものでもない。突然にいろいろなものが集まって、たまたまこんな形になったんだ」
しかし、驚いた友人はやや興奮した口調で言い返しました。「人を馬鹿にしないでくれ。誰かが作ったに決まっているじゃないか。これを作った人は天才だよ。いったいどこの誰だ!」ニュートンは友人の肩に手を置いて言いました。
「この単純なオモチャが設計者も製作者もなく、勝手に出来たと言っても君は信じない。
ところが君は、この仕掛けの元になった偉大な宇宙が設計者も、製作者もなく出現したと言う。
なぜそんな矛盾した結論になるのか少し説明してくれたまえ。」ニュートンは、そのようにして友人を神様に導いたのです。

導くことは素晴らしいと思います。
しかしあくまで確率論をいっているだけで証明にはなっていません。
ホーキング博士が反論しています。

ホーキング博士

最後にかかれた本でホーキング博士が寄せられた質問に答える形で、「宇宙人は存在する」「人工知能は人間をしのぐかもしれない」「時間旅行の可能性は否定できない」といった説を打ち出しています。
神については、「神は存在しない。宇宙を司る者はいない」と断言し、「何世紀もの間、私のような障害者は、神に与えられた災いの下で生きていると信じられていた」「だが私はそれよりも、全ては自然の法則によって説明できると考えたい」と記した。
ホーキング博士は「神の存在を信じない」と公言していた無神論者。
「『神が宇宙を創造した』という古い考えは科学の進歩により説明がつかなくなった」とも断言しました。

ホーキング博士も神の不存在は証明できないのですから、「神は存在しない。」と断言するのは非科学的ですね?
神の存在は証明できない、しかしいないとも証明できない、とするのが科学ですね。

今度は11才の天才少年ウィリアム君の反論です

天才少年ウィリアム君

ウィリアム君は逆の考えを持っています。
ホーキング博士が言うように「何もないという状態から宇宙が出来る」はずはなく、「外的要因」つまり「神」が宇宙を創り出したと結論付ける方が理にかなっている、と考えているのです。

「無神論者は『神は存在しない』って言うけど、そう考えるにはよっぽどの信念が必要になるんだ。
だって、『何かが宇宙を創り出した』って考える方が、『宇宙は自らを創り出した』って考えるよりずっと理にかなってるからね」

アメリカ・ペンシルバニア州出身のウィリアム君は天文学者になることを夢見る少年です。
でも、普通の少年ではありません。生後7か月で完璧な文章を話し、1歳過ぎで足し算を、2歳で掛け算を習得。9歳で高校を卒業し、若干11歳で超名門校カーネギーメロン大学に入学した天才少年なのです。
しかもウィリアム君は単なる天才少年ではありません。ギリシャ正教会の司教である父親の影響を受けた、信仰心の強いキリスト教徒でもあるのです。
そんな彼が目指しているのは、神の存在を科学の力で証明すること。アインシュタインやホーキング博士の唱えた宇宙理論、特に「神は存在しない」とした考え方は間違いであり、全く賛同できないと語っています。

カント

カントは神の存在証明を以下のように分類し手くれました。

目的論的証明(自然神学的証明) 世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
本体論的証明(存在論的証明) 「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
宇宙論的証明 因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根因があるはず。この根因こそが神だ。
道徳論的証明 「道徳に従うと幸福になる」と考えるには神の存在が必要だ。

どれも結局、神の存在証明にはなりませんでした。
不毛の論争を生み出すことが多くなります。

人はその心を外界に移します。
自然が弱肉強食にみえたのは、そういう心があるからです。
心が豊かであれば自然は共存共栄にみえてきます。

生物学者の今西錦司先生

生物学者の今西錦司先生のように、
強者のライオンが弱者のシマウマを食べているのではない。
生物学的に見れば繁殖力の強いシマウマが強者である。
したがって強者のシマウマが弱者のライオンを養っているとみるべきである。

この世界に神を感じれるか、偶像にはまるか、無神論に陥るかは私の心次第です。
決して証明された客観的なものではありません。

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