神主義とニッポン

「幸福になりたい!」と願って生きている

人はただ漠然と「幸福になりたい!」と願って生きています。
誰しも、1度くらいは、「幸福とは何か?」と問うてみたことがあるに違いありません。

簡単に幸福について悟れるわけでもなく、いつの間にか忘却の彼方へと追いやってしまっている人が多いでしょう。
そのため人は、「何のために生きるのか?」という素朴な疑問にさえ、答えを持たずに暮らすようになります。

これが、有史以来、人々が何万年何十万年と繰り返し積み重ねてきた歴史である。
人類の歩みも歴史なら、個人の人生も歴史であるが、そこに「どうしたら不幸になれるのか」ということを学ぶことができたとしても、”幸福の意味”を見いだすことはたやすくない程に本質を失っている。

いつからだろう、人が、幸福を追い求めることをやめ、それは手の届かないものであると信じてしまったのは・・・・。
「しょせん、これが人間だ。」とあきらめを悟るしか道はないのでしょうか?

「人生はこんなものよ」冷めた瞳

このように、求める心の力を失なってしまえば、かえってその人生は行き詰まり、ますますその心は疲れ、肉体の年齢にかかわらず老いてしまいます。

今や、年若くして、老いている人も少なくありません。
渋谷や原宿に行けば、大勢の十代の老人に出会うことができるでしょう。
その年齢にして、すでに「人生はこんなものよ」と、とても冷めた瞳をしてしまっています。

いずれ、時の女神に後ろ髪をつかまれ、たとえ本人がどんなに嫌がったとしても、自分の人生をしっかり振り返らせられ、「こんなはずではなかったのに・・・・。」というお決まりのセリフが心の中を駆け巡る。

当たり前だが、登るべき山の山頂がわからなければ、どの道を登ってよいかわからない。
同様に幸福の意味がわからなければ、幸福を実現する為の道がわかるはずはない。
むやみに登れば必ず遭難するが、むやみに生きればやはり、人生に遭難する。

遭難した人は、たいがい森の魔物の力によって同じ所をグルグルとまわらされ、その森を二度と出ることはできないが、人生の遭難者も魔物に見入られたごとく、二つの極端な人生を行ったり来たりと永遠に繰り返しさ迷う。

すなわち日々の欲望に身を任せる人生(快楽主義)と、頑固に自らに掟を課し真面目に生きる人生(禁欲主義)である。
当然、快楽的に生きていれば、時間とともに心の不安が増し、「このままではいけない」と言って禁欲へと転じる。
そして禁欲的に生きれば、やはり時間とともに心が疲れ再び快楽と戻ってしまう。

この繰り返しである。

永遠のシーソーゲーム

結局、個人の人生も人類の歴史も複雑にみえて単純に、永遠と快楽と禁欲のシーソーゲームを続けてきただけである。

登らずにたどりつく山頂(快楽主義)もなければ、頑張って苦しんでいるから必ず山頂(禁欲主義)につくというものでもない。
たとえ死ぬまで頑張ったとしても、山頂への道がみえなければ絶対に山頂へはつかない。

“幸福”という名の山頂を見失い、”不幸”という名の樹海の中をさ迷い続けているのである。

歩くにせよ走るにせよ、とにかく動いていれば「そのうち出れる」と安易に考え、ますます樹海にはまっていく。
結局、もがきつづけるか、もがくことに疲れ「樹海もなかなかいいじゃない」と開き直るかしかない。

どちらにせよ、求める心を失い、幸福の意味も分からなければ、おのずとその人生は、幸福へ至ることはもちろん、不幸という名の樹海から脱出する事はできない!

すり替えられた人生

人は、さまよっているだけでは方向性が定まらないので、力も出ないし、むなしい。
したがって、何らかの”人生の目的”を持つことなしに生きることはできない。

かといって、誰かが教えてくれるわけでもなく、教えてくれると言っても何か胡散臭いにおいもするし、「まあいいか!」といって、仕方なく何らかの目的を設定して生きている。
それでは、こういった人々が掲ている”仕方ない目的”とは何であろうか。

それは、手段の目的化であり、目的と手段の転倒である。

人は、自分でも気づかず、巧妙に目的と手段をすり替えて生きているのだ。
わかりやすく、個人の人生をを例にとってみよう。

本来、”衣食住”などの生活は生きるための手段であって、人生の目的そのものではない。
「当然だ、そんな事わかっている!」と叱られそうだが、わかっているつもりでも、人は、食べる事はもちろん、マイホームや車、電化製品やファション等生活自体を目的としてしまっている。
驚いた事にマイホーム等、ただ住むために生涯かけてローンを支払っている!

もし、生活が人生の目的として成立するならば、仕事や家事など、さまざまな生活のための雑事自体を喜び、できるだけ長い時間、多くの労力をそこにかけたいと願うであろう。
それは本来、手段でしかないので、出来るだけ少ない労力で楽をしてすませたいと願っている。
手段であるから必要がないと言っているのではないが、生活自体が目的となってしまえば、「生活の物質的豊かさ」が、人生の中心となってしまう。

人は何のために生きるのか?

人は、生きるために生きるのか。
もちろん、「豊かな生活」=「幸福な人生」ではない。

仮に、物質的な豊かさを手に入れ、一時の刺激を得られたとしても、決して、その人の心が満たされることはない。
その証拠に、その心は次から次へととどまるところを知らずに贅沢を求め、まわりから見れば、どんなに恵まれていたとしても、その心は「足らない足らない」と、常に不平を鳴らす。

実際、物質的に豊かなはずのニッポンや先進国家で、かえって深刻な問題を数多く抱えているではないか。
また、社会における企業も、一個人と全く同様であることは言うまでもない。

最近、特に話題となっている金融界を例にとってみよう。
本来の金融機関の使命とは何であろうか。
人間の体にたとえれば、金融は心臓の役割に相当する。
心臓が血液を体全体に休みなく送り、循環させているように、資本主義社会においては、金融機関が資本を社会全体に休みなく送り、循環させなければならない。
しかし、一個人の生活と同様に運営に疲れ、心が冷めてしまえば、本来の社会の公器としての目的を忘れ、企業を維持し守ることが目的となってしまう。
心臓の目的は、身体を生かすことである。と同様に金融機関のみならず、いかなる企業も社会や人間を生かすためにある。
身体を生かすための手段であるはずの心臓が、その位置を離れ、心臓自体の維持や利益を中心に、血液の循環が偏ったり、止まったりすれば、その身体はもはや生きていることはできない。
心臓のうまく機能しない身体が、生きていくことができないように、金融機関が資本の流れを乱してしまえば、その社会はもはや滅びるしかない。

それほど重要な使命を担っている金融にもかかわらず、”背任行為”、”粉飾決算”や”飛ばし”など、平気で社会よりも企業を優先できてしまう。

たとえそれで、誰にもばれず、無事退職をしたとしても、やはりその心は満たされることはなく、常にむなしさがつきまとう。
金も地位も名誉もあらゆる力もすべて手段であって、一度、目的となってしまえばその人生は破壊されてしまう。

勉強などいい例で、勉強そのものが絶対に目的ではないにもかかわらず、「勉強のための勉強」すなわち受験をさせられるのだから、多感な青少年のにとってはたまったものではない。
結婚も同様である。
幸福な家庭を形成するプロセスである結婚が目的となってしまい、ゴールインと称している。

このように、知らず知らずのうちに手段を目的と化し、「これさえ手に入れば幸せになれるはずなのに・・・。」と、かえって”思い患い”という蟻地獄に落ちてしまう。
蟻地獄とは、動けば動く程、もがけばもがく程深みにはまって行く地獄である。
ただでさえ樹海をさまよっているのに、蟻地獄にまで落ちてしまうとは!

本心の叫び

それにしても人は、どうやってこの泥沼ような”現実”を過ごしてきたのだろう。
中には耐えきれず自殺する者もいるが、ほとんどの人は今なお耐え続けている。

このような”現実”から喜びを見出す事はできるはずもなく、”現実”は、ほんの僅かの休息と忍耐と苦難の連続でしかない。
事実、そのような心から聞こえてくる声は、”仕方ない””しようがない””これが人生だ”、という悪魔のささやきであって、天使の歌声ではない。
どんなに悪魔に見入られた心でも、その心の奥底では、「それが本来の自分の姿ではない」と懸命に叫んでいる声がある。

そのような心を、”本心”という。

本心だけは、そのような転倒された生き方では、決して幸福になることはできない、”偽りの人生”であることを知っている。
この本心だけは、決してだますことはできない。

したがって、まず、この本心の声にこそ耳をかたむけるべきである。
ところが残念ながら、人はその叫び声が、聞こえるには聞こえるのだが、何を叫んでいるのかまでは聞き取ることができない。
多くの人にとって心の叫びは、”何か”を求めているというあいまいなものにしかならないのだ。
しかも、そのわずかの声さえ、年とともに聞こえなくなってしまう。

いつしか人は、耐え難い”現実”を生きるため仕方なくさまよい、その心は常に”何か”を求めながら飢え渇く。
その”何か”が分からず、心の力を失い、現実に希望がない以上、その”何か”は安易に”現実逃避の為の刺激”という解答に到達してしまう。
そのような解答にたどり着いてしまえば、その人生観は現実を忘れさせてくれる、何らかの刺激を追い求めて生きるようになるのである。
本質的にみれば、生きているというよりは、死んでいると言った方がいいのかもしれない。

まさに魂を失ってしまっているのである。

現実が嫌であればあるほど、当然、求める刺激は強烈なものとなってしまう。少々の刺激では、現実を忘れられないからだ。
人間は、多種多様な個性を持っている。それゆえ、さまざまな人生観があってもいいだろう。

しかし、一度魂を失ってしまえば、はからずも、その人生観は同じものへと同化してしまう。
すなわち、生きるためには仕方はない現実を、できるだけ楽をして便利にすまし、自分の創り出す仮想現実の中へ逃避することを趣味として生きるようになるのである。
そう魂を失いしものの趣味は、”仮想現実への逃避”なのだ。
意識を逃避させる、すなわち何かにはまって、一時、現実を忘れるためには、この世界、特に、資本主義社会においては、金が必要なので、金を思い患うようになる。 金を持っているだけでも、その刺激で、現実逃避は可能である。
それどころか、当たるかどうかわからない、いや確率的にはほとんど当たるはずもない宝くじを買っただけでも、逃避はできる。
逃避している人には、もはや現実(夢)と仮想現実(空想)の区別はつかない。

現実とは違い仮想現実は、わずかの投資で大きな見返りを得ようとするものであり、犠牲は少なければ少ないほどよい。実現のためにはどんな障害も越えていくというよりは、「実現したらいいなぁ」と空想しているにすぎない世界なのだ。

よく、ある宗教団体に属している人に対して、”はまっている”という批判を耳にするが、人はだれもが、現実を忘れさせてくれる何かにはまりたくて仕方ないのだ。
もし、何にもはまらず、心に不安やむなしさを持つこともなく堂々と生きることができているとすれば、その人こそ、聖人と呼ぶにふさわしい。
読書、旅行、温泉、美食、映画、ゲーム、おしゃべり、ファッション、空想、仕事など、あげればきりはないが、すべてその”刺激”を使って現実を忘れたいのだ。
こういったことに、はまっている時こそが、さびしい事に、人にとって至福の時間となってしまっている。
ここに挙げられたものが悪いと言っているのではない。
こういうことを利用して、現実を逃避しようとする、すさんだ心が問題なのだ。

さらに、その心が愛を失い傷つき、だんだんとむなしさをませば、過剰なアルコールやギャンブル、麻薬、不倫、暴走、暴力、犯罪へとエスカレートしていく。
毎晩、アルコール類によって酔わなければ、その日を終えられない人生の、どこに喜びを見いだすというのであろうか。

フリーセックスや恋愛も同様である。
恋愛は宇宙諧謔以来の真理でもないのに、法律に違反しない強烈な刺激であるため、本当の愛によって満たされない心を埋めるために、多くの人がはまっている。
恋愛以外は偽りの結婚と思い込んで、時代劇にまで恋愛を持ち込み恋愛でない結婚は束縛であり自由がないと批判している。

一度はまってしまえば、その強力なパートナー(はまれる材料、思想)を守るため、いかなる反対にあったとしても、至上の原理として必死に守ろうとする。
狂信者になってしまえば、自由なはずの恋愛に敗れ自殺しようとするものまで現れる。

誰も気付いていないのだろうか?
それとも気付いていていても、やめられないのか?
このような現実逃避を趣味として生きるようになれば、行えば行うほどかえって、心をすさませてしまい、自分を生かしたい、心を癒したいと思いつつ、かえって自分を殺してしまうのだ。

私たちは一体、何のために生きているのだろう。

最も汚れなき、美しい瞳をしているのは、生まれたばかりの赤ん坊ではないか!
年をとるということは、その瞳にあきらめと打算、その心に寂しさとむなしさを増幅させ定着させることになのか。
今に至っては、子供にすらその瞳に輝きを見いだすことが難しい。

このように、幸福になりたいと願いながら、その幸福の意味すらもわからず、はからずも不幸の道をたどっているのである。

地上天国の実現

魂を失い、そのいくべき道すらも迷宮に埋没する人間を、本当の愛と真理を持って救うために現れたのが聖人・義人である。
その教えが宗教である。

しかし、残念ながら現代の多くの人々の本音は、宗教にそのような救いの力があることを疑っている。

それどころか、宗教にかかわってしまうと、利用され、かえって不幸になってしまうのではないかという嫌悪感さえもある。
確かに人の不幸につけこんで商売している宗教業者も少なくない。

なぜだろうか?

それは、聖人がその生涯をかけて、まさに命がけで創始した宗教が、その弟子たちによって、安易に宗教団体・業者と化してしまうからだ。

何も宗教が団体化することが悪いと言っているのではない。

本来、”現実の幸福”を扱うべき宗教が、いつのまにか、”仮想現実の幸福”を扱うようにすり替えられてしまうことが問題なのである。

かつて弘法大師空海が、現実の不幸の状況を顧みようともせず、ただ念仏を唱えたその功労で、「あの世で天国に行ける」と説いた安易な極楽浄土の教えを批判し、真の宗教は、まずこの現実の不幸をこそ解決し、幸福へ導くものであると説いた。

祈願も、お参りも、お守りも、祭りも、葬式も、絵馬も、鳥の市の熊手さえも、御利益はすべて仮想現実へのパスポートとなる。
たとえ今が苦しくとも、何らかの宗教的攻労や条件を立てれば、凶事を予防し吉事を保証されると思っている。

宗教であるにもかかわらず、失われている魂をそのまま放置していれば、当然のように目的と手段が転倒する。
人の幸福のためにあるべき宗教が、その方便でしかない団体を守り擁護することがいつのまにか目的となり、指導者はそれが信仰であると説き、信徒はそのための奴隷やロボットに、自ら進んでなるようになる。
そこでは、専制社会以上に批判はゆるされない。

安易に宗教にはまっている人間は、仮にその教えがどんなにすばらしかったとしても、結局、自分を変えようともせず、自分をとりまく環境を変えるため”神”や”先祖”にすがるようになる。

環境が不幸の原因であるといって責任転嫁しているのは、宗教に敵対しているはずの、”進化論”や”唯物論”と同じではないか!

本当は、根本的にそういった心の根が間違っているのだが、それに気づこうともせず、自分の願いが実らないのは、功労や条件など自己犠牲の量が足らないからと勘違いをし、日々を汲々として過ごしている。
こうなってしまえば、もはや、讒訴(ざんそ)さえも迫害となってしまう。
はまっているため、問題を起こして周りに被害をもたらしたことで周辺から讒訴されているのに、当人は迫害に感じれてしまうのだ。

こういう人にとっての幸福とは、この地上にせよ天上(霊界)にせよ、環境に恵まれる(天国)ことであり、あわよくば地上で得られなかった特権をあの世で得る(選民)ことである。

今、私が現実的に生きているこの瞬間の中に喜びを見い出し、それが未来へつながるものでなくて何の幸せであろう。

善に生きるのは、そこに喜びがあるからであって、決して、天国に行くとか地獄へ落ちないためではない。

犠牲の道は、そこに喜びを見いだすことで本物となるが、もし、何らかのご利益目当てで苦しむのなら、それは単に不幸なだけではないか。

魂を失ったままの人間は、宗教団体に所属している人も、していない人も、仮想現実の種類の違いだけであって、その本質は全く変わらない。

まず幸福とは私の生きるこの地上世界に現実的に実現されるものであり、神の国は、地上天国からなされなければならない。
聖人イエスが、「天国とはまさに、あなたのただ中にある。」と言ったのは、まさにこのことである。

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