創世記にみる人類優劣闘争史の始まり

聖書の創世記に見られるアダムとイブの堕落後のカインとアベルの物語から人類闘争史の根源を解いていきます。
すべての争いの原因がここに記されていますので、何げなく読めば単なる物語ですがまさに聖書は預言書(予言書ではない)であると感じます。
ちなみに日本の古事記も旧約聖書の流れをくんだ書であると思っています。

参考までに聖書の創世記は
第1章:天地創造
第2章:人間(アダム・イブ)の創造
第3章:人間(アダム・イブ)の堕落
と物語が進んでいきますが、今回取り上げるのは以下の第4章カインとアベルの物語です。

第4章:カインとアベルの物語(口語訳旧約聖書より抜粋)
人はその妻エバを知った。
彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
彼女はまた、その弟アベルを産んだ。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。
もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。
それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。
彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。


アダムとイブは最初に兄の「カイン」が産まれ、次に弟の「アベル」が産まれます。
カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者になりました。

ここで大切な点は、アダムもイブも神から追放された立場であるということです。
神の愛を失ってしまったのですから、その子供カインとアベルを愛することも、本来からはゆがんでしまっているであろうことです。
それは次のことで判明します。

カインがアベルに嫉妬した?

カインがアベルに嫉妬したのです。
嫉妬とは愛の反対で「満たされない」心の状態です。
何かに比較されて起きた感情ではなく、愛に満たされずに愛に飢えている心の状態です。
もちろん、嫉妬心は比較されればさらに燃え上がり復讐心となります。
別の角度から言えば、嫉妬心がなければ比較されたり、立場が劣っても素直に相手を尊敬できます。

再度確認しますと、比較されたことが原因で嫉妬するのではなく、愛に飢えているから些細なことも、あるいは自分が劣っていると感じることすべてに引っかかりを持ってしまうのです。
周りのせいではなく愛の欠如です。
ですからアダムもイブの親としての愛が不十分であったのです。
宗教的に厳格にいえば神から追放された、すなわち愛を失ってしまったのです。

さて話を戻しますと、カインは地の産物を供え物としアベルはその群れの初子と肥えたものを備えました。
ここではアベルは飼っている羊の中で肥えたものよ初子を供えたのですから、より良いものを供えたように推察できます。
しかしこの記述だけでは、どちらがどういう姿勢で供えたかは推察の域を出ません。
ここでは両者ともに供え物をしたと単純に考えます。

ここからが問題です。

しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

 

神はカインの供え物は顧みなかったと言うのです。
神が供え物を顧みないというのはどういう状態でしょうか。
映画などではアベルの供え物に火がついたり、神の声が聞こえたりしますが本当にそうなのでしょうか?

今も昔も科学法則は変わらない

私の基本姿勢ですが、現代であろうと昔であろうと太古であろうと科学法則は一定であるという前提です。
「昔々まだ魔法が使えた時代」という設定は、あくまでもアニメや映画の世界であって現実ではありません。

聖書も同じで、聖書の世界は特殊な世界ではなく、今も昔も、聖書の中も全く変わらないという考えです。
聖書の記述が今の科学と矛盾しているのであれば、
・聖書の記述が事実そのものを記載したのではなく、何らかの比喩か例えをしている。
・現在の科学がまだ未熟で未解明である部分がある。
のどちらかでしょう。

どんなに尊い人が供え物をしても、それに火がついたり神が持っていったりましません。
火がついたのなら火事であり、無くなったのなら泥棒です。
神の声も複数人に聞こえるようなこともありません。
個々の霊的直感力によって各個の内なる神の声を聞くことはあっても隣の人に聞こえることはありません。

ですから、現象だけ見れば、カインの供え物も、アベルの供え物も何も変わるはずがないのです。
問題はなぜカインは自分の供え物は顧みられなかったと感じたのでしょうか?

カインの嫉妬の原因

現代人でもある種の供え物をします。
献金・お布施やお守り・お札、断食やお茶断ちなど無数の形を変えた供え物をします。
では、どこで神が顧みた、効果があった、守られたと感じるのでしょうか?

それは願い通りの結果が得られたか否かです。
受験合格祈願でお守りを購入すれば、受かれば効果があったと感じるでしょう?
まさに御利益であり、受験合格の神という偶像崇拝で有り、予防律法主義なのですが当然嫉妬心の強い人ほどこの傾向が強いです。

カインはアベルに比して願いが叶わないと感じたのです。
実内容はわかりませんが、例えばアベルに比較して
・子だからに恵まれない
・病気がち
・儲からない(食べ物が豊かでない)
・人間関係がうまくいかない(相手がモテるなど)
・相手が楽そうにみえる(当たり前に恵まれている感じ)
など、カインの願いがアベル側で実って自分は恵まれていないものを大いに感じたのでしょう?

人は他人に比して自分が恵まれていないと感じたときに「自分は神に愛されていない」「運命をのろう」「神はいない」「神はいらない」と思うのです。
無神論は実は科学的問題ではなく、心の嫉妬心の問題だったのです。
「神はいない」と言っているのではなく実は「神はいらない」と言っているのです。

共産主義を提唱し「神は脳の産物」といったマルクス君の履歴が典型例でしょう?

余談ですが、「神がいらない」と言っている無神論に「科学的に神を証明する」ことがいかにむなしいかと思います。
無神論者ではなく嫌神論なのですから、愛で導く以外にはありません。

カインはアダムとイブの、すなわち親の堕落による愛の欠如により霊的直感力がにぶり、その嫉妬心から弟アベルとの人生を比較し自分は恵まれていないと強く思ったのです。
嫉妬心は潜在的劣等感となり、比較されて、ないしは自ら比較して被害者意識となり、その積み重ねから復讐願望へと肥大させてしまったのです。
▶嫉妬心→劣等感→被害者意識→復讐願望

神の愛を失い優劣闘争が始まる

嫉妬心は恵まれないと感じる劣等的立場では劣等感として、恵まれたと感じる優越的な立場では優越感として発揮されます。
優越感も嫉妬心の産物なのです。

神の愛を失い霊的直感力がにぶった人類は、神の存在を御利益、すなわち何らかに恵まれなければ感じれなくなってしまいました。
実際は恵まれた高揚感で、金メダルも世界記録もサッカーのゴールも商売がうまくいくのも神体験ではありません。

人間はこうして嫉妬心を根に持つため、2人以上いれば優劣闘争から逃れられません。
比較・評価せずにはいられないのです。
順位をつけずにはいられないのです。
すべての苦労は優越感を得るための力を得るために行うのです。
当然、優越感を得られるのは極一部の人間か、得られても瞬間なので常に現実逃避を模索します。

アダムとイブの堕落以来、その子供である人間は
・人生の目標は「優越感」
・幸福とは優越的立場に立つこと
・努力は優越感を得るための、劣等的立場から脱出するための力を得るため
・悔しさ(復讐心)が原動力
・現実逃避が趣味、そのための時間と金銭がほしい
になってしまいました。

すべて比較からしか起きませんから、優劣闘争史が始まったのです。

その後、復讐心の積もったカインは弟アベルを殺してしまいます。
このわずかな記述の中に人類闘争史の根源が記されているとは驚きです。

個人も人類も再び神の愛を感じ神の前に帰らなければ、人類闘争史がやむことはないでしょう?

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