神の存在論は互いに尊重すべき?

歴史上、神の存在論で多くの宗教宗派が争ってきました。
本来、平和と幸福をもたらすはずの宗教が最も戦争の原因となっていることは皮肉です。
そこでその争いの元となる「神の存在」について考察したいと思います。

ここで扱う「神」は唯一の創造神(ヤーウェ、アッラー、ゴッド)で、日本人的感覚の「神」ではありません。
以降、聖書に顕現される神を「神」と称します。
おかしなことを言うようにも思えますが、思想を語る上では言葉の定義は重要と思います。

神の存在の有無(存在論)

歴史上、存在論で人は対立しています。
○存在の有無で宗教と無神論の対立
○存在の名称や定義で宗教間の対立

神は愛であるが故に自然界(創造物)に対して主張せず存在がみえません。
そのため存在の有無は検証できません。
詳細は「神は愛であるが故に存在証明は不要?」から

同じ宗教・宗派に所属していても本人たちは気づいていませんが一人一人神観は違います。

そもそも検証できない神の存在論を統一することに無理があります。
「私の神を見つけなさい」
と個別に神と出会い私の神の存在論を持つことがモーセの十戒以来の教えです。

検証できないのですから、いくら自分の、ないしは所属団体の神観が優れているといっても分裂しか起きません。
また、御利益の介入してしまう温床なのです。

この神の存在論で争って来たのが今までの宗教戦争であり、間違った宗教統一運動です。

検証できない神の存在論は個々の感性(霊性)に任せるべきであり互いに尊重すれば良いことです。
何かの料理を食べた時の感覚(味わい)を統一するのが無理なのと同じことです。

宗教を非検証の不可侵状態にしてはいけない

宗教を非検証の不可侵状態にするのではなく、霊性と理性が一つになっての課題を解決することが必要です。
霊性と理性もともに神が与えたものですから。
これがよって立つところです。
霊性:主に霊的感性による真理の追究
理性:主に直感に基づくひらめきを、理性的に検証・実証する

すなわち検証できない神の存在論(無神論含む)は個々に任せ尊重し検証可能なものを自然統一することが大切です。
真理追究の目的は神の存在の有無(存在論)ではなく、「神がいかなるお方か?」という性質論を問うべきです。

そのために神の被造世界(人間を含む自然界)を観察する、神の存在を問わず検証可能な自然の姿を追求するのです。

・人間よりも宇宙・自然が先に存在すること
・自分の体は自分で造ったのではないこと
・自然界なくしては生きていけないこと
などは検証されています。

しかし、最後のできた人間や人間意識が先にある体や自然界に対して支配的に接する事でおかしな(破壊)状況になっています。

体との関係が善ければ、健やかになる
人との関係が善ければ、爽やかになる
自然との関係が善ければ、癒やされる
この神の祝福は検証可能です。

神の存在論は問わず互いに尊重する

神の存在論は問わず互いに尊重し自然の在りようを研究・検証し幸福を追求する。
この「自然の在りよう」を追求した結果、その背後に神(愛)を感じるようになるかも知れませんが「神はいるかもね」でとどめる。
検証できない神の存在論(無神論含む)は個々の感性・霊性に任せ、互いに尊重し合うべきです。

現在、様々な運動・サプリメント・医療が提供されながら病人は増え、医療費は毎年一兆円(日本)づつ増えています。
体に対しての現代人の関わり方が間違っているか、これがまさに検証された結果です。

神を見失った人間が「気づかずに」「支配的」に自然に不当介入している事の問題となります。

本来の神の創原的な関わりとなれば、健康で天才性が発揮されます。
これを具体的に研究・検証・実証することが目的です。

したがって真理の実証は神の存在論を理論的に固め、相手を論破することではなく(ましてや論破した人数の競争ではない(教勢))幸福の追求であると思います。
これであれば、固定観念にとらわれていなければ宗教宗派をこえ集うことができます。
真理は唯一であるという確信と、真理は星の数ほどにあるという寛容は両立してこそ価値があります。
前者だけなら「鼻持ちならない絶対主義者」、後者だけなら「優柔不断な相対主義者」でしかありません。

宗教あるいは人生観はその人に任せ(感化はしても良い)。本来の自然の在りようを追求し共有することが大切です。
この事がおそらく唯一の統一の道ではないかと今は考え思索しています。

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